01月

大丈夫か?連合会の社労士制度国際化事業

2014.1.21
<月刊社労士が届いた>
社会保険労務士に登録しますと、毎月「月刊社労士」が届きます。
まあ、社会保険労務士に関する情報本ですね。
今日届きましたので、さっそくPDF化して、ipadでいつでも見れるようにしました。

 

 

<連合会が韓国と交流している記事を読む・・・>
今日はテレビ等で、「初代総理大臣、伊藤博文元首相を暗殺した安重根(アン・ジュングン)の記念館が、中国で開館し、大きな波紋が広がっている」などと報道されているさなか、月刊社労士では、韓国の方々と積極的に交流をすすめる記事。。。「オイオイ大丈夫か?」なんて思いながら、読み進めてみますと・・・

●月刊社労士によると、全国社会保険労務士会連合会は、2007年に韓国公式訪問団を結成して訪韓し、交流協定書を締結して以来交流があるとのこと。
●「SHAROUSHI」を国際資格として認知されるように活動しているようである。
●社労士と同等の国家資格が、唯一制度化されているのが韓国らしい。
●2014年に開催する時には、日本の法制度や社労士の役割、活躍状況などを発表予定。
●「韓国の公認労務士会との友好関係の構築は、双方の利益に結びつくものであると考えている」とのこと。
●「会員各位の積極的なご支援をお願いするところである」と結んでいる。

 

 

<「双方の利益」「積極的なご支援をお願い」とはいうが・・・>
う~ん、この活動に関しては、そこまで乗り気でない思いをするのは、私だけだろうか?
日本の社会保障制度は、(海外から見れば魅力的かもしれないが)改正も多くごちゃごちゃしており、輸出するほど魅力的だとまでは思っていないというのが正直なところ。。。「SHAROUSHI」を国際資格にするは、かなりハードルが高い気がする。
①一方的にコンテンツ・ノウハウの提供だけで終わり。もしくは、
 ②仮に国際資格になりそうなら、「SHAROUSHI」という日本語だけは認めたくないという主張が「どこかの国」から出て取り消されるのではないだろうか?

 

いや、そんなことはない、これは私の思い過ごしに違いない! 国際ライセンスになるんだ。そんなことあるはずない・・・

ひたすら討論・演説番組を見た感想

2014.1.20

<討論・演説番組にハマった1日>
昨日日曜日、何か今後の役に立つヒントになればと思い、ひたすら朝から晩まで討論番組や演説動画を観ていました
NHKから民放、ネットに流れている動画、はたまたBBC放送といった海外メディアまで、ありとあらゆる番組を観ていました。

①ときどき笑いを入れながら上手に話すAさん、②説得力のある話をするBさん、③しかしクレームっぽい参加者番組で、AさんBさんはあまり活躍できず、訥々(とつとつ)と話すCさんが受け入れられている番組 、④中華系の討論番組では、変な(センス悪い?)効果音が入っている ⑤日本の討論番組は、案外おもしろい(ただし笑いのセンスはイマイチ) などなど、いろいろ参考になりました。

 

<ぐるっと一周回って得た感想>
集中的に、討論や演説番組を観て、思った感想を4つお話ししたいと思います。
①【第一印象(重要度10%)】
第一印象は大事です。巷では「見た目が9割」というという本があったりしますが、こと討論については想像していたより重要度は低い感じでした。

②【前提となる知識・経験(重要度20%)】
当然ですが、討論や演説する以上、一般人よりは深い知識・経験は必要です。突っ込まれるときもありますから。 ただこれも、想像していたよりは重要度が低い感じでした。

③【話している相手のニーズをくみ取り、②を加工する能力(重要度35%)】
何かに置き換えて話したり、経験談を入れたりして、話の内容に合わせ加工する能力です。 きちんと話を聞き、瞬時に加工する能力は、討論・演説・セミナーなどでは、とても重要だと感じました(番組を観ていて、上手だなあという方いました)。

④【③をどういう声のトーン、表情で伝えるか(重要度35%)】
評論家など、すでに見識のある方が出られている番組で、特に感じたのは④でした。 すでに①~③は備わっているのですが、「声のトーン、話すスピード、表情や態度、言い回し」まで気を付けていないためか、いい話なんだけど、スッと心に入ってこない方々もいらっしゃいました。内容が素晴らしいだけに、もったいない印象が否めません。 ゆっくり落ち着いて話すことが重要だと感じました。

余談:【討論と演説はイコールではない】
演説は敵を見立てて、話しをして聴衆を説得たりしますが、その調子で討論すると、建設的な話が難しくなると感じました。
演説がとても上手なんだけど、ディベートがちょっと・・・という先生、評論家の動画を観て、そう思いました。

 

 

ということで、まる1日集中的に、討論・演説動画を観た感想を述べさせていただきました。時間がたつのも忘れて、あっという間に1日が過ぎてしまいました。ただ、生活に支障がでてくるので、今後は控えたいと思います。。。

週刊社労士!(2014/1/18号)

srnews
<介護保険料引上げ>
中小企業の社員約2000万人が加入する全国健康保険協会(協会けんぽ)は14日、2014年度の介護保険料率を前年度比0.17ポイント引き上げ1.72%にすると発表した。医療の保険料率は10.0%に据え置くが、国費による支援策がなければ引き上げを迫られていた計算だ。介護・医療ともに企業や従業員が負担すべき保険料は上昇傾向が続いている。
労使が折半する保険料は、加入者の収入の標準額に保険料率をかけて算出する。介護では今回の保険料率上げで、保険料の年額は加入者1人当たり6万9636円となり、前年度比6882円増える。 ※2014/1/15 日経web

 

<年金記録解明「不可能」 調査縮小へ>
菅義偉官房長官は17日午後の記者会見で、社会保障審議会(厚生労働相の諮問機関)の年金記録問題に関する特別委員会の報告書で依然、未解明とされている約2100万件の年金記録に関し、これ以上の解明は困難との認識を示した。
菅長官は未解明分について「解明には本人からの申し出が必要だ。申し出がなければ、なかなか難しい状況だ」と指摘。「国で実施できる作業は一通り終え、そのめどが見えてきたと報告を受けた」と述べ、政府としてこれ以上の対応には限界があるとの立場を示した。
一方で菅長官は「一人でも多くの方が年金記録を解明できるように、粘り強く『ねんきんネット』などを充実していく必要がある」と強調した。 ※2014/1/17 時事通信

 

<看護師不足 さらに深刻に>
 看護師や助産師などの看護職員の就労支援を行う全国のナースセンターで、平成24年度の看護師の求人倍率が平均3・17倍と11年度の調査開始以来初めて3倍を超えたことが14日、日本看護協会のまとめで分かった。協会は「看護師の資格を持ちながら結婚などで退職し復職していない『潜在看護師』の復職支援などに力を入れたい」としている。
 まとめによると、助産師なども含めた看護職員の求人倍率が高かったのは愛知県(4・11倍)▽長野県(3・92倍)▽愛媛県(3・78倍)▽福島県(3・40倍)▽三重県(3・39倍)-の順。 ※2014/1/14 産経ビズ

あきらめるのはまだ早い!年金記録調査

【記事1】※2014/1/17 時事通信
nenkintetyo
菅義偉官房長官は17日午後の記者会見で、社会保障審議会(厚生労働相の諮問機関)の年金記録問題に関する特別委員会の報告書で依然、未解明とされている約2100万件の年金記録に関し、これ以上の解明は困難との認識を示した。
菅長官は未解明分について「解明には本人からの申し出が必要だ。申し出がなければ、なかなか難しい状況だ」と指摘。「国で実施できる作業は一通り終え、そのめどが見えてきたと報告を受けた」と述べ、政府としてこれ以上の対応には限界があるとの立場を示した
一方で菅長官は「一人でも多くの方が年金記録を解明できるように、粘り強く『ねんきんネット』などを充実していく必要がある」と強調した。

【記事2】※2014/1/17 テレビ朝日
2014.1.17
 いまだに2000万件を超える年金記録が「宙に浮いた」ままとなっています。
 誰のものか分からない「宙に浮いた5000万件」などの年金記録問題では、厚生労働省が行ってきた9億5000万件ある紙台帳の記録の確認が今年度で終了します。17日、これまでの対応を検証した報告書がまとめられました。4000億円を超える費用が投入されましたが、未解明の年金記録はいまだに2112万件あり、新たに記録が見つかるのは「限定的になっている」としています。一方、記録確認の通知に返信がない場合も多く、一部の委員からは「自己責任ではないか」という声も上がっていました
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<年金記録問題は誰が悪い?>
菅長官が述べられているように、「宙に浮いた年金記録」をすべて基礎年金番号に結びつけるのは、困難です。
これは誰が悪いのか?
政治家、官僚、会社、組合・・・色々な考え、意見があるかと思います。
個人的には、そもそもミスが発生しやすい制度設計をした、当時の学者さんらも責任があるんじゃないかと思います。
しかし根本的には、上に立つ方々(政治家・官僚・・・)の問題を先送りした心の弱さにあるのだと思います。
誰だって泥をかぶりたくないですからね。 そして現在も(いずれ年金の支給開始年齢を遅らせることなど)それは続いています。
平成19年、第1次安倍内閣のときに、この年金記録問題が話題になりました。
「最後のお1人にいたるまで、きちんと年金をお支払していく」というのは、年金を触ったことのある社労士や社会保険事務所の職員なら「無理」と分かっていました。 でもあのとき、まだ若かった安倍さんが、泥(それも汚泥)をかぶって、年金問題を正面から取り組もうとした姿勢を私は評価しています。 他の政治家の方だったら、ここまで問題を大きくせず、上手に蓋をしてしまっていたように思うのです。

 

 

<解明が非常に困難な理由>
どうして解明が困難なのか? 年金記録の調査をしていた自分の体験から、3つの理由があるように思います。
①量が膨大
②関心が無い
③見つけるのにテクニックが必要

①はすぐに思いつくと思います。なにせ、5,000万件あった宙に浮いた年金記録がいまだに2,100万件も残っているのですから(ここから先の解明がしんどい)。
そして意外にも②の方も多いため、協力が進まず、なかなか解明できません。
さらに問題は③です。「ねんきんネット」を自分が使いこなせればいいですが、なかなか難しい。
そうすると、年金事務所などで調査ということになるのですが・・・これがまた少々テクニックがいるんです!
「上手に聞き出す能力」「パソコンで紙台帳を検索する能力」は、ある意味職人技です。
これら3つの理由により、解明が難しい状態となっています。

 

 

<私のプチ自慢「年金記録調査」>
この年金記録調査、実は結構得意(好き)です。なんか「宝探し」している感覚で、見つかると喜ばれるので、今も時々行っています。 年金記録の調査のポイントを下に載せましたので、ご興味のある方は、画像をクリックし大きくして確認してみてくださいね。
2014.1.17.2
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ブラック企業の烙印を押されると・・・

2014.1.17 大都市圏の飲食業界で働くアルバイトやパートの時給が、求人業界の統計で上がり続けている。景気が回復し、人手不足の影響が最初に表れているのが背景とみられる。ただ、厚生労働省の統計では、全国でパートで働く人の1人当たりの平均月収は減少傾向が続く。パートで働く人たち全体に恩恵が広がっているわけではない。
求人情報大手リクルートジョブズが20日まとめた飲食業界の11月の平均募集時給は、3大都市圏平均で前年同月より1・3%高い930円。25カ月連続で前年を上回り、2007年1月の調査開始以来、最も高い水準になった。
首都圏は6カ月、関西地方は24カ月、東海地方は17カ月連続で前年同月を上回った。背景には、景気回復による人手不足がある。飲食業界は賃金水準が低いため、労働市場で人手が不足すると、最初に時給引き上げを迫られる面がある
20日に開業した「イオンモール幕張新都心」(千葉市)に入る飲食店では11月、都内より200~300円高い時給1200~1300円でのアルバイト募集が相次いだ。和食店などを出すフォーシーズ(東京)の担当者は「アルバイトの争奪戦だった」・・・※2013/12/22 朝日デジタル
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<飲食店の時給が上昇中!>
上記記事のとおり、最近の飲食業界は人手不足のようです。そのため時給がじわじわ上昇しています。
実は、時給が上昇しているだけでなく、よ~く観察していると、従業員も変化してきています!

①場違いに綺麗なお姉さんがいる店
②明らかに不向きな従業員を抱えている店

どうも、「時給を少々上げたところで、飲食店として使えそうな人材が集まってきていないなあ」と感じています。※でも食事しながらガンバレ!って心で叫んでます(^^) 飲食業界全体がなんとなく「ブラック」という印象を持たれつつあり、いい人が集まってきていないのかも。。。
 飲食業界上層部の方々には、価格競争や商品開発に加え、もう1つ、従業員が「恥ずかしいところで働いていない」というイメージ戦略も、検討していただければなと思います。

医療現場と労働基準法の無力さ

2014.1.15
看護師や助産師などの看護職員の就労支援を行う全国のナースセンターで、平成24年度の看護師の求人倍率が平均3・17倍と11年度の調査開始以来初めて3倍を超えたことが14日、日本看護協会のまとめで分かった。協会は「看護師の資格を持ちながら結婚などで退職し復職していない『潜在看護師』の復職支援などに力を入れたい」としている。

 まとめによると、助産師なども含めた看護職員の求人倍率が高かったのは愛知県(4・11倍)▽長野県(3・92倍)▽愛媛県(3・78倍)▽福島県(3・40倍)▽三重県(3・39倍)-の順。

 病院や介護保険施設などの求人の約7割は常勤の看護職員を求めていたが、求職者の半数近くは非常勤やパート勤務を希望していた。協会によると「常勤で働きたい人は減少傾向にある」という。

 協会は毎年、各都道府県に置かれるナースセンターでの求人動向を分析。資格を持ちながら働いていない「潜在看護師」は71万人いるという研究結果もあり、厚生労働省は看護師の登録制度を検討し、看護師の離職防止や再就職支援策を進めている。 ※2014/1/14 産経ビズ

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<求人倍率4倍!の看護師求人>
看護師が足りていないという報道は聞いたことがありましたが、愛知県がこれほど足りていないとは思いませんでした。
でも愛知県や三重県で足りていないのは、なんとなく想像ができます。
それは、愛知県の求人倍率が、東京に次いで高いという位、こちらでは仕事がたくさんあるからです。
だから、看護師を退職して、別の仕事に就く方も多いのだろうと思います。
看護師の月給は悪くないと思いますので、原因は『過重労働』にあるのだと思います。

 

<労基法の無力さを痛感する「現場」>
私は医師、看護師、教師といった仕事をしたことがありませんが、俗にいう聖職者とよばれる職業は「長時間労働」かつ「労働密度も高い」です。労働環境はあまり良くありません。
どんな職場でも「現場」を目の前にして、「労働基準法」という法律は、なんとも無力です。
「ヤレ!」といわれたら、頭でつべこべ考えず、手や体を動かすのが「現場」ですから。。。
看護師の求人がこれだけ多いということは、これから就職すれば、長時間労働が求められるだろうと想像がつきます。
 ただどんなに好きな仕事でも、「限度」っちゅうもんがあります。
本来、需要と供給のバランスで、ある程度均衡してくるものなんですが(=つまり医療費や授業料が高くなれば客は減る)、市場原理が働かない職場では、難しいでしょう。
これからも、高齢者の割合は増えていきますし、医療も高度化していきますので、このままではさらに労働環境は悪化していきます。
為政者の方には、少しでも医療現場が改善されるような改革をお願いしつつ、今日も現場で働いている方々は、なかなか改善されないであろう労働環境の下、健康に気を付けていただきたいと願っています。病気を治すところで、病的になるような働き方はやっぱり良くないです。

ヤクルト1本 9時間労働

yakult<朝からぶっ飛ばしすぎて・・・>

今日は朝から忙しかったので、カバンに「パンとおにぎり」を忍ばせ、とりあえずヤクルトだけ飲んで仕事に出かけました。 そして・・・

 

途中お茶を飲んだ以外は、何も食べずに日が暮れてしまいました。。。不規則な生活はよくありません。ただ、ごくまれに労働社会保険の仕事って、食事抜きで夢中になることってありません? 今日はそんな1日でした。

不思議とあまり疲れていませんが、夜9時を過ぎると眠気はさすがに襲ってきました。 というわけで、私の座右の銘「睡眠」に従って、眠るとします。。。

夏目漱石の言葉と社労士業

natume<夏目漱石の講演「道楽と職業」>

今日は「仕事論」について、昔の偉人「夏目漱石」の話をしてみたいと思います。

夏目漱石は、明治44年8月に仕事に関する講演を行っています。 題名は「道楽と職業」。内容を簡潔に言えば
●職業=人のためにする仕事
●道楽=自分のためにする仕事

t(ということなんですが、講演のなかで、いろいろ「仕事」に関する自分の考えを述べられています。名誉ある博士号の授与を辞退して、帝大教授の職も辞して、いわゆる堅い仕事でない作家としての道を選んだ漱石らしい、「仕事」に対する考えが述べられています(=金稼ぐことは悪いことじゃないよという考え)。ちなみに彼は、日本でまだなじみの無かった考え方「印税」をしっかり要求していたようです。仕事に見合うお金をきちんと要求していたようです。

社労士業をしていると、「仕事」とは何か?と考えさせられる時があるかと思います。随分昔の話ではありますが、今でも考えさせられる点もありますので、一読されてみてはいかがでしょうか? (小説でなく講演ですので、量は少ないですが、ちょっと読みにくい文体です)

 

 

<夏目漱石・講演「道樂と職業」より

 ただいまは牧君の満洲問題――満洲の過去と満洲の未来というような問題について、大変条理の明かな、そうして秩序のよい演説がありました。そこで牧君の披露に依ると、そのあとへ出る私は一段と面白い話をするというようになっているが、なかなか牧君のようにうまくできませぬ。ことに秩序が無かろうと思う。ただいま本社の人が明日の新聞に出すんだから、講演の梗概こうがいを二十行ばかりにつづめて書けという注文でしたが、それは書けないと言って断ったくらいです。それじゃアしゃべらないかというと、現にこうやってしゃべりつつある。しゃべる事はあるのですが、秩序とか何とかいう事が、ハッキリ句切くぎりがついて頭に畳み込んでありませぬから、あるいは前後したり、混雑したり、いろいろお聴きにくいところがあるだろうと思います。ことにあなた方の頭も大分つかれておいででしょうから、まずなるべく短かく申そうと思う。
 私の申すのは少しもむずかしいことではありません。満洲とか安南とかいう対外問題とは違ってごくやさしい「道楽と職業」という至極しごく簡単なみだしです。内容も従って簡単なものであります。まあそれをちょっとわずかばかり御話をしようと思う。
 元来こんな所へ来て講演をしようなどとは全く思いもよらぬことでありましたが、「是非出て来い」とこういう訳で、それでは何か問題を考えなければならぬからその問題を考える時間を与えてくれと言いましたら、社の方ではよろしいと云って相応の日子にっしを与えてくれました。ですから考えて来ないということも言えず、出て来ないということも無論言えず、それでとうとうここへ現われる事になりました。けれども明石あかしという所は、海水浴をやる土地とは知っていましたが、演説をやる所とは、昨夜到着するまでも知りませんでした。どうしてああいう所で講演会を開くつもりか、ちょっとその意を得るに苦しんだくらいであります。ところが来て見ると非常に大きな建物があって、あそこで講演をやるのだと人から教えられて始めてもっともだと思いました。なるほどあれほどの建物を造ればその中で講演をする人をどこからか呼ばなければいわゆる宝の持腐れになるばかりでありましょう。したがって西日がカンカン照って暑くはあるが、せっかくの建物に対しても、あなた方は来て見る必要があり、また我々は講演をする義務があるとでも言おうか、まアあるものとしてこの壇上に立った訳である。
 そこで「道楽と職業」という題。道楽と云いますと、悪い意味に取るとお酒を飲んだり、または何か花柳社会へ入ったりする、俗に道楽息子と云いますね、ああいう息子のする仕業しわざ、それを形容して道楽という。けれども私のここで云う道楽は、そんな狭い意味で使うのではない、もう少し広く応用のく道楽である。い意味、善い意味の道楽という字が使えるか使えないか、それは知りませぬが、だんだん話して行くうちに分るだろうと思う。もし使えなかったら悪い意味にすればそれでよいのであります。
 道楽と職業、一方に道楽という字を置いて、一方に職業という字を置いたのは、ちょうど東と西というようなもので、南北あるいは水火、つまり道楽と職業が相闘うところを話そうと、こういう訳である。すなわち道楽と職業というものは、どういうように関係して、どういうように食い違っているかということをまず話して――もっともその道楽も職業も、すでに御承知のあなた方にそういう事を言う必要もなし、私もいてやりたくはないが、しかしぜん申したような訳でわざわざ出て来たものだから、そこはあなた方にすでに御分りになっている程度以上に、一歩でももう少し明かに分らせることが、私の力でできればそれで私の役目は済んだものと内々たかをくくっているのであります。
 それで我々は一口によく職業と云いますが、私この間も人に話したのですが、日本に今職業が何種類あって、それが昔に比べてどのくらいの数にえているかということを知っている人は、おそらく無いだろうと思う。現今の世の中では職業の数は煩雑はんざつになっている。私はかつて大学に職業学という講座を設けてはどうかということを考えた事がある。建議しやしませぬが、ただ考えたことがあるのです。なぜだというと、多くの学生が大学を出る。最高等の教育の府を出る。もちろん天下の秀才が出るものと仮定しまして、そうしてその秀才が出てから何をしているかというと、何か糊口ここうの口がないか何か生活の手蔓てづるはないかと朝から晩まで捜して歩いている。天下の秀才を何かないか何かないかと血眼ちまなこにさせて遊ばせておくのは不経済の話で、一日遊ばせておけば一日の損である。二日遊ばせておけば二日の損である。ことに昨今のように米価の高い時はなおさらの損である。一日も早く職業を与えれば、父兄も安心するし当人も安心する。国家社会もそれだけ利益を受ける。それで四方八方良いことだらけになるのであるけれども、その秀才が夢中に奔走して、汗をダラダラ垂らしながら捜しているにもかかわらず、いわゆる職業というものがあまり無いようです。あまりどころかなかなか無い。今言う通り天下に職業の種類が何百種何千種あるか分らないくらい分布配列されているにかかわらず、どこへでも融通がくべきはずの秀才が懸命にけ廻っているにもかかわらず、自分の生命を託すべき職業がなかなか無い。三箇月も四箇月も遊んでいる人があるのでこれは気の毒だと思うと、豈計あにはからんやすでに一年も二年もボンヤリして下宿に入ってなすこともなく暮しているものがある。現に私の知っている者のうちで、一年以上も下宿に立てこもって、いまだに下宿料を一文も払わないで茫然ぼうぜんとしている男がある。もっとも下宿の方でも信用しているから貸しておくし、当人もどうかなるだろうと思って安心はしているらしいが国家の経済からいうとずいぶん馬鹿気た話であります。私も多少知っている間柄あいだがらだから気の毒に思って、職業は無いか職業は無いかぐらい人に尋ねて見るが、どこにもそう云う口が転がっていないので残念ながらまだそのままになっています。けれども今言う通り職業の種類が何百通りもあるのだから、理窟りくつから云えばどこかへぶつかってしかるべきはずだと思うのです。ちょうど嫁を貰うようなもので自分の嫁はどこかにあるにきまってるし、また向うでも捜しているのは明らかな話しだが、ついうまく行かないといつまでも結婚が後れてしまう。それと同じでいくら秀才でも職業にぶつからなければしようがないのでしょう。だから大学に職業学という講座があって、職業は学理的にどういうように発展するものである。またどういう時世にはどんな職業が自然の進化の原則として出て来るものである。と一々明細に説明してやって、例えば東京市の地図が牛込区とか小石川区とか何区とかハッキリ分ってるように、職業の分化発展の意味も区域も盛衰も一目の下に暸然会得りょうぜんえとくできるような仕かけにして、そうして自分の好きな所へ飛び込ましたらまことに便利じゃないかと思う。まあこれは空想です。実際やって見ないから分らぬが、恐らくできますまい。できたらよかろうと思うだけです。非常に経済なことにはなるでしょう。

 こんな考を起すほどに私は今の日本に職業が非常にたくさんあるし、またその職業が混乱錯雑しているように思うのです。現にこの間も往来を通ったら妙な商売がありました。それは家とか土蔵とかを引きずって行くという商売なんだから私は驚いたのであります。この公会堂をこのまま他の場所へ持って行くという商売です。いくら東京に市区改正が激しく行われたって、そう毎年建てたばかりの家の位置を動かさなければならぬというように変化していやアしない。現に私の家などは建った時から今日まで市区改正に掛らずにいる。ほよど辺鄙へんぴな所にあるのだからでしょう。けれどもたとい繁華はんかな所にいたって、そう始終しじゅう家を引ッ張ッてッて貰わなければならぬという人はない。しかるにそれを専門に商売にしている者があるから、東京は広いと思ったのです。馬琴の小説には耳のあか取り長官とか云う人がいますが、ひと耳垢みみあかを取る事を職業にでもしていたのでしょうか。西洋には爪を綺麗きれいに掃除したり恰好かっこうをよくするという商売があります。近頃日本でも美顔術といって顔の垢を吸出して見たり、クリームを塗抹とまつして見たりいろいろの化粧をしてくれる専門家が出て来ましたが、ああいう商売はおそらく昔はないのでしょう。今日のように職業がいもつるみたようにそれからそれへと延びて行っていろいろ種類がえなければ、美顔術などという細かな商売は存在ができなかろうと思う。もっとも昔はかえって今にない商売がありました。私の幼少の時は「柳の虫や赤蛙あかがえる」などと云って売りに来た。何にしたものか今はただ売声だけ覚えています。それから「いたずらものはいないかな」と云って、旗をかついで往来を歩いて来たのもありました。子供の時分ですからその声を聞くと、ホラ来たと云って逃げたものである。よくよく聞いて見ると鼠取ねずみとりの薬を売りに来たのだそうです。鼠のいたずらもので人間のいたずらものではないというのでやっと安心したくらいのものである。そんな妙な商売は近頃とんと無くなりましたが、締括しめくくった総体の高から云えば、どうも今日の方が職業というものはよほど多いだろうと思う。単に職業に変化があるばかりでなく、細かくなっている。現に唐物屋とうぶつやというものはこの間まで何でも売っていた。えりとか襟飾りとかあるいはズボン下、靴足袋くつたびかさ、靴、たいていなものがありました。身体からだへつけるいっさいの舶来品を売っていたと云っても差支さしつかえない。ところが近頃になるとそれが変ってシャツ屋はシャツ屋の専門ができる、傘屋は傘屋、靴屋は靴屋とちゃんと分れてしまいました。靴足袋屋……これはまだ専門はできないようだが、今にできるだろうと思います。現に日本の足袋屋は専門になっています。十文のをくれと云えば十文のをくれる、十一文のをくれろと云えば十一文のをくれる。私が演説を頼まれて即席に引受けないのは、足袋屋みたいにちょっと出来合いがないからです。どうか十文の講演をやってくれ、あそこは十一文甲高こうだかの講演でなければ困るなどと注文される。そのくらいに私が演説の専門家になっていれば訳はありませんが私の御手際おてぎわはそれほど専門的に発達していない。素人しろうとが義理に東京からわざわざ明石辺までやって来るというくらいの話でありますから、なかなかそううまくはいきませぬ。足袋屋はさておいて食物屋たべものやの方でもチャンとした専門家があります。例えば牛肉も鳥の肉も食わせる所があるかと思うと、牛肉ばかりのうちがあるし、また鳥の肉でなければ食わせないという家もある。あるいはそれが一段細かくなって家鴨あいがもよりほかに食わせない店もある。しまいには鳥の爪だけ食わせる所とか牛の肝臓だけ料理する家ができるかも知れない。分れて行けばどこまで行くか分りません。こんなにはげしい世間だからしまいには大変なことになるだろうと思う。とにかく職業は開化が進むにつれて非常に多くなっていることが驚くばかり眼につくようです。ところがこれは当り前のことで学問の研究の上から世の中の変化とでも云いましょうか、漠然ばくぜんたる社会の傾向とでも云いましょうか、必然の勢そういうように割れて細かになって来るのであります。これは何も私の発明した事実でも何でもない、昔から人の言っていることであります。昔の職業というものは大まかで、何でも含んでいる。ちょうど田舎いなかの呉服屋みたいに、反物を売っているかと思うと傘を売っておったり油も売るという、何屋だか分らぬ万事いっさいを売る家というようなものであったのが、だんだん専門的に傾いていろいろに分れる末はほとんど想像がつかないところまで細かに延びて行くのが一般の有様と行って差支ないでしょう。

 ところでこの事実をずっと想像に訴えて遠い過去にさかのぼったらどうなるでしょう。あるいは想像でも溯れないかも知れないけれども、この事実のうちに含まれている論理の力で後ろの方へ逆行したらどんなものでしょう。今言う通り昔は商売というものの数が少なかった。職業の数が少なくって、世間の人もそのわずかな商売をもって満足しておったという訳なのだから、あるいはかさを買いに行っても傘がない、衣物きものを買いに行っても衣物がないという時代がないとも限らない。私はかつて熊本におりましたが、或る時灰吹はいふきを買いに行ったことがある。ところが灰吹はないと云う。熊本中どこを尋ねても無いかと云ったら無いだろうと云う。じゃ熊本では煙草たばこまないかたんを吐かないかというと現に煙草を喫んでいる。それでは灰吹はどうするんだと聞くと、裏のやぶへ行って竹をって来てこしらえるんだと教えてくれました。裏の藪から伐って来て、青竹の灰吹で間に合わしておけばよいと思っているところでは灰吹は売れない訳である。したがって売っているはずがないのである。そういう風に自分で人の厄介にならずに裏の藪へ行って竹を伐って灰吹を造るごとく、人のお世話にならないで自分の身のまわりをなるべく多く足す、また足さなければならない時代があったものでしょう。さてその事実を極端まで辿たどって行くと、いっさい万事自分の生活に関した事は衣食住ともいかなる方面にせよ人のおかげこうむらないで、自分だけで用を弁じておった時期があり得るという推測になる。人間がたった一人で世の中に存在しているということは、ほとんど想像もできないかも知れないし、またそこまで論理を頼りに推詰めて考える必要もない話ですが、そこまで行かないとちょっと講話にならないから、まあそうしておくのです。すなわち誰のお世話にもならないで人間が存在していたという時代を思い浮べて見る。例えば私がこの着物を自分で織って、このえりを自分でこしらえて、すべて自分だけで用を弁じて、何も人のお世話にならないという時期があったとする。また有ったとしてもよいでしょう。そういう時期が何時かあったらどうするという意味ではないが、まああると仮定して御覧なさい。そうしたらそういう時期こそ本当の独立独行という言葉の適当に使える時期じゃないでしょうか。人から月給を貰う心配もなければ朝起きて人にお早うと言わなければ機嫌きげんが悪いという苦労もない。生活上寸毫すんごうも人の厄介にならずに暮して行くのだから平気なものである。人にすくなくとも迷惑をかけないし、また人にいささかの恩義も受けないで済むのだから、これほど都合の好いことはない。そういう人が本当の意味で独立した人間といわなければならないでしょう。実際我々は時勢の必要上そうは行かないようなものの腹の中では人の世話にならないでどこまでも一本立でやって行きたいと思っているのだからつまりはこんな太古の人を一面には理想として生きているのである。けれども事実やむをえない、仕方がないからまず衣物を着る時には呉服屋の厄介になり、おさいを拵える時には豆腐屋の厄介になる。米も自分でくよりも人の搗いたのを買うということになる。その代りに自分は自分で米を搗き自分で着物を織ると同程度の或る専門的の事を人に向ってしつつあるという訳になる。私はいまだかつて衣物を織ったこともなければ、靴足袋くつたびを縫ったこともないけれども、自ら縫わぬ靴足袋、あるいは自ら織らぬ衣物の代りに、新聞へ下らぬ事を書くとか、あるいはこういう所へ出て来てお話をするとかして埋合せをつけているのです。私ばかりじゃない、誰でもそうです。するとこの一歩専門的になるというのはほかの意味でも何でもない、すなわち自分の力に余りある所、すなわち人よりも自分が一段とぬきんでている点に向って人よりも仕事を一倍にして、その一倍の報酬に自分に不足した所を人から自分に仕向けて貰って相互の平均を保ちつつ生活を持続するという事に帰着する訳であります。それをごくむずかしい形式に現わすというと、自分のためにする事はすなわち人のためにすることだという哲理をほのめかしたような文句になる。これでもまだちょっと分らないなら、それをもっと数学的に言い現わしますと、己のためにする仕事の分量は人のためにする仕事の分量と同じであるという方程式が立つのであります。人のためにする分量すなわち己のためにする分量であるから、人のためにする分量が少なければ少ないほど自分のためにはならない結果を生ずるのは自然の理であります。これに反して人のためになる仕事を余計すればするほど、それだけ己のためになるのもまた明かな因縁いんねんであります。この関係を最も簡単にかつ明暸めいりょうに現わしているのは金ですな。つまり私が月給を拾五円なら拾五円取ると、拾五円がた人のために尽しているという訳で取りも直さずその拾五円が私の人に対して為し得る仕事の分量を示す符丁ふちょうになっています。拾五円方人に対する労力を費す、そうして拾五円現金で入ればすなわちその拾五円は己のためになる拾五円に過ぎない。同じ訳で人のためにも千円の働きができれば、己のために千円使うことができるのだから誠に結構なことで、諸君もなるべく精出せいだして人のためにお働きになればなるほど、自分にもますます贅沢ぜいたくのできる余裕を御作りになると変りはないから、なるべく人のために働く分別をなさるが宜しかろうと思う。

 もっとも自分のためになると云ってもためになり方はいろいろある。第一そのうちから税などを払わなければならない。税を出して人に月給をやったり、巡査を雇っておいたり、あるいは国務大臣を馬車に乗せてやったりする。もっとも一人じゃアこれだけの事はできませぬ、我々大勢で金を出してやるのですが、畢竟ひっきょうずるにあの税などもやはり自分のために出すのです。国務大臣が馬車や自動車に乗ってしからんと言ったってそれは野暮の云う事です。我々が税を出して乗らしておいてやるので国務大臣のためじゃない、つまり己のためだと思えば間違はない。だから時々自動車ぐらい借りに行ってもよかろうと思う。税はそのくらいにしてこのほか己のためにするものは衣食住と他の贅沢費になります。それを合算すると、つまり銀行の帳簿のように収入と支出と平均します。すなわち人のためにする仕事の分量はりもなおさず己のためにする仕事の分量という方程式がちゃんと数字の上に現われて参ります。もっともけちめているやつがあるかも知れないが、これは例外である。例外であるが蓄めていればそれだけの労力というものをあと繰越くりこすのだから、やはり同じ理窟りくつになります。よくあいつは遊んでいてにくらしいとかまたはごろごろしていてうらやましいとか金持の評判をするようですが、そもそも人間は遊んでいて食える訳のものではない。遊んでいるように見えるのはふところにある金が働いてくれているからのことで、その金というものは人のためにする事なしにただ遊んでいてできたものではない。親父おやじが額に汗を出した記念だとかあるいは婆さんの臍繰へそくりだとか中には因縁付いんねんつきの悪い金もありましょうけれども、とにかく何らか人のためにした符徴ふちょう、人のためにしてやったその報酬というものが、つまり自分の金になって、そうして自分はそのおかげでもって懐手ふところでをして遊んでいられるという訳でしょう。職業の性質というものはまあざっとこんなものです。
 そこでネ、人のためにするという意味を間違えてはいけませんよ。人を教育するとか導くとか精神的にまた道義的に働きかけてその人のためになるという事だと解釈されるとちょっと困るのです。人のためにというのは、人の言うがままにとか、欲するがままにといういわゆる卑俗の意味で、もっと手短かに述べれば人の御機嫌ごきげんを取ればというくらいの事に過ぎんのです。人にお世辞を使えばと云い変えても差支さしつかえないくらいのものです。だから御覧なさい。世の中には徳義的に観察するとずいぶんしからぬと思うような職業がありましょう。しかもその怪しからぬと思うような職業を渡世とせいにしている奴は我々よりはよっぽどえらい生活をしているのがあります。しかし一面から云えば怪しからぬにせよ、道徳問題として見れば不埒ふらちにもせよ、事実の上から云えば最も人のためになることをしているから、それがまた最も己のためになって、最も贅沢ぜいたくきわめていると言わなければならぬのです。道徳問題じゃない、事実問題である。現に芸妓げいしゃというようなものは、私はあまり関係しないからしてくわしいことは知らんけれどもとにかく一流の芸妓とか何とかなるとちょっと指環を買うのでも千円とか五百円という高価なものの中から撰取よりどりをして余裕があるように見える。私は今ここにニッケルの時計しか持っておらぬ。高尚な意味で云ったら芸妓よりも私の方が人のためにする事が多くはないだろうかという疑もあるが、どうも芸妓ほど人の気に入らない事もまたたしからしい。つまり芸妓は有徳な人だからああ云う贅沢ができる、いくら学問があっても徳の無い人間、人に好かれない人間というものは、ニッケルの時計ぐらい持って我慢しているよりほか仕方がないという結論に落ちて来る。だから私のいう人のためにするという意味は、一般の人の弱点嗜好しこうに投ずると云う大きな意味で、小さい道徳――道徳は小さくありませぬが、まず事実の一部分に過ぎないのだから小さいと云っても差支さしつかえないでしょう。そう云う高尚ではあるが偏狭な意味で人のためにするというのではなく、天然の事実そのものを引きくるめて何でもかでも人に歓迎されるという意味の「ためにする」仕事を指したのであります。
 そこで職業上における己のため人のためと云う事は以上のように御記憶を願っておいて、話がまた後戻りをする恐れがあるかも知れないが、ぜん申した通り人文発達の順序として職業が大変割れて細かくなると妙な結果を我々に与えるものだからその結果を一口御話をして、そうして先へ進みたいと思います。私の見るところによると職業の分化錯綜さくそうから我々の受ける影響は種々ありましょうが、そのうちに見逃す事のできない一種妙な者があります。というのはほかでもないが開化の潮流が進めば進むほど、また職業の性質が分れれば分れるほど、我々は片輪かたわな人間になってしまうという妙な現象が起るのであります。言い換えると自分の商売がしだいに専門的にかたむいてくる上に、生存競争のために、人一倍の仕事で済んだものが二倍三倍乃至ないし四倍とだんだん速力を早めておいつかなければならないから、その方だけに時間と根気を費しがちであると同時に、お隣りの事や一軒おいたお隣りの事が皆目かいもく分らなくなってしまうのであります。こういうように人間が千筋も万筋もある職業線の上のただ一線しか往来しないで済むようになり、また他の線へ移る余裕がなくなるのはつまり吾人の社会的知識が狭く細く切りつめられるので、あたかも自ら好んで不具になると同じ結果だから、大きく云えば現代の文明は完全な人間を日に日に片輪者に打崩うちくずしつつ進むのだと評しても差支ないのであります。ごくの野蛮時代で人のお世話には全くならず、自分で身にまとうものを捜し出し、自分で井戸を掘って水を飲み、また自分で木の実か何かを拾って食って、不自由なく、不足なく、不足があるにしても苦しい顔もせずに我慢をしていれば、それこそ万事人に待つところなき点において、また生活上の知識をいっさい自分に備えたる点において完全な人間と云わなければなりますまい。ところが今の社会では人のお世話にならないで、一人前に暮らしているものはどこをどう尋ねたって一人もない。この意味からして皆不完全なものばかりである。のみならず自分の専門は、日に月に、年には無論のこと、ただ狭く細くなって行きさえすればそれですむのである。ちょうどはり掘抜ほりぬき井戸を作るとでも形容してしかるべき有様になって行くばかりです。何商売を例に取っても説明はできますが、この状態を最もよく証明しているものは専門学者などだろうと思います。昔の学者はすべての知識を自分一人で背負しょって立ったように見えますが、今の学者は自分の研究以外には何も知らない私がぜん申した意味の不具がそろっているのであります。私のような者でも世間ではたまに学者扱にしてくれますが、そうするとやっぱり不具の一人であります。なるほど私などは不具に違ない、どうもすくなくとも普通のことを知らない。区役所へ出す転居届の書き方も分らなければ、地面を売るにはどんな手続をしていいかさえ分らない。綿は綿の木のどんな所をどうしてこしらえるかも解し得ない。玉子豆腐たまごどうふはどうしてできるかこれまた不明である。食うことは知っているが拵える事は全く知らない。その他味淋みりんにしろ、醤油にしろ、なんにしろかにしろすべて知らないことだらけである。知識の上において非常な不具と云わなければなりますまい。けれどもすべてを知らない代りに一カ所か二カ所人より知っていることがある。そうして生活の時間をただその方面にばかり使ったものだから、完全な人間をますます遠ざかって、実に突飛なものになりおおせてしまいました。私ばかりではない、かの博士とか何とか云うものも同様であります。あなた方は博士と云うと諸事万端人間いっさい天地宇宙の事を皆知っているように思うかも知れないが全くその反対で、実は不具の不具の最も不具な発達を遂げたものが博士になるのです。それだから私は博士を断りました。しかしあなた方は――手をたたいたって駄目です。現に博士という名にごまかされているのだから駄目です。例えば明石あかしなら明石に医学博士が開業する、片方に医学士があるとする。そうすると医学博士の方へ行くでしょう。いくら手を叩いたって仕方がない、ごまかされるのです。内情を御話すれば博士の研究の多くは針の先きで井戸を掘るような仕事をするのです。深いことは深い。掘抜きだから深いことは深いが、いかんせん面積が非常に狭い。それを世間ではすべての方面に深い研究を積んだもの、全体の知識が万遍なく行き渡っていると誤解して信用をおきすぎるのです。現に博士論文と云うのを見ると存外細かな題目を捕えて、自分以外には興味もなければ知識もないような事項を穿鑿せんさくしているのが大分あるらしく思われます。ところが世間に向ってはただ医学博士、文学博士、法学博士として通っているからあたかもすべての知識をもっているかのように解釈される。あれは文部省が悪いのかも知れない。虎列剌コレラ病博士とか腸窒扶斯ちょうチフス博士とか赤痢せきり博士とかもっと判然と領分を明らかにした方が善くはないかと思う。肺病患者が赤痢の論文を出して博士になった医者の所へ行ったって差支さしつかえはないが、その人に博士たる名誉を与えたのは肺病とは没交渉の赤痢であって見れば、単に博士の名で肺病をかつぎ込んでは勘違かんちがいになるかも知れない。博士の事はそのくらいにしてただ以上をかいつまんで云うと、吾人は開化の潮流に押し流されて日に日に不具になりつつあるということだけは確かでしょう。それをほかの言葉でいうと自分一人ではとても生きていられない人間になりつつあるのである。自分の専門にしていることにかけては、不具的に非常に深いかも知れぬが、その代り一般的の事物については、大変に知識が欠乏した妙な変人ばかりできつつあるという意味です。
 私は職業上己のためとか人のためとか云う言葉から出立してその先へ進むはずのところをツイわき道へそれて職業上の片輪かたわという事を御話しし出したから、ついでにその片輪の所置について一言申上げて、また己のため人のための本論に立ち帰りたい。順序の乱れるのは口にられる講演の常として御許しを願います。
 そこで世の中では――ことに昔の道徳観や昔堅気むかしかたぎの親の意見やまたは一般世間の信用などから云いますと、あの人は家業に精を出す、感心だと云ってめそやします。いわゆる家業に精を出す感心な人というのはとりなおさず真黒になって働いている一般的の知識の欠乏した人間に過ぎないのだから面白い。露骨に云えば自ら進んで不具になるような人間を世の中ではめているのです。それはとにかくとして現今のように各自の職業が細く深くなって知識や興味の面積が日に日にせばめられて行くならば、吾人は表面上社会的共同生活を営んでいるとは申しながら、その実銘々めいめい孤立して山の中に立てこもっていると一般で、隣り合せにきょぼくしていながら心は天涯てんがいにかけ離れて暮しているとでも評するよりほかに仕方がない有様におちいって来ます。これでは相互を了解する知識も同情も起りようがなく、せっかくかたまって生きていても内部の生活はむしろバラバラで何の連鎖もない。ちょうど乾涸ひからびたほしいのようなもので一粒ひとつぶ一粒に孤立しているのだから根ッから面白くないでしょう。人間の職業が専門的になってまた各々自分の専門に頭を突込んで少しでも外面を見渡す余裕がなくなると当面の事以外は何も分らなくなる。また分らせようという興味も出て来にくい。それで差支さしつかえないと云えばそれまでであるが、現に家業にはいくら精通してもまたいくら勉強してもそればかりじゃどこか不足な訴が内部からきざして来て何となく充分に人間的な心持が味えないのだからやむをえない。したがってこの孤立支離の弊を何とかしてめなければならなくなる。それを矯める方法を御話しするためにわざわざこの壇上に現われたのではないからくわしい事は述べませんが、また述べるにしたところで大体はすでに諸君も御承知の事であるが、まあ物のついでだから一言それに触れておきましょう。すでに個々介立の弊が相互の知識の欠乏と同情の稀薄きはくから起ったとすれば、我々は自分の家業商売にわれて日もまた足らぬ時間しかもたない身分であるにもかかわらず、その乏しい余裕をいて一般の人間を広く了解りょうかいしまたこれに同情し得る程度に互の温味あたたかみかもす法を講じなければならない。それにはこういう公会堂のようなものを作って時々講演者などをへいして知識上の啓発けいはつをはかるのも便法でありますし、またそう知的の方面ばかりでは窮屈すぎるから、いわゆる社交機関を利用して、互の歓情を※(「磬」の「石」に代えて「缶」、第4水準2-84-70)つくすのも良法でありましょう。時としては方便の道具として酒や女を用いても好いくらいのものでしょう。実業家などがむずかしい相談をするのにかえって見当違けんとうちがいの待合などで落合って要領を得ているのも、全く酒色という人間の窮屈をかし合う機械のそなわった場所で、その影響の下に、かどの取れた同情のある人間らしい心持で相互に所置ができるからだろうと思います。現に事がまとまるという実用上の言葉が人間として彼我ひが打ち解けた非実用の快感状態から出立しなければならないのでも分りましょう。こういうと私が酒や女をむやみに推薦するようでちょっとおかしいが、私の申上げる主意はたとい弊害の多い酒や女や待合などが交際の機関として上流の人に用いられるのでも、人間は個々別々に孤立して互の融和同情を眼中に置かず、ただ自家専門の職業にのみ腐心してはいられないものだという例に御話したくらいのものであります。本来を云うと私はそういう社交機関よりも、諸君が本業に費やす時間以外の余裕をげて文学書を御読みにならん事を希望するのであります。これは我が田へ水を引くような議論にも見えますが、元来文学上の書物は専門的の述作ではない、多く一般の人間に共通な点について批評なり叙述なり試みた者であるから、職業のいかんにかかわらず、階級のいかんにかかわらず赤裸々せきららの人間を赤裸々に結びつけて、そうしてすべての他の墻壁しょうへきを打破する者でありますから、吾人が人間として相互に結びつくためには最も立派でまた最も弊の少ない機関だと思われるのです。少くとも芸妓を上げて酒を飲んだと同等以上の効果がありそうに思われるのであります。あなた方もこういう公会堂へわざわざこの暑いのに集まって、私のような者の言うことを黙って聴くような勇気があるのだから、そういう楽な時間を利用して少し御読みになったらいかがだろうと申したいのです。職業が細かくなりまた忙がしくなる結果我々が不具になるが、それはどうして矯正きょうせいするかという問題はまずこのくらいにして、この講演の冒頭に述べた己のためとか人のためとかいう議論に立ち帰ってそのつづまりをつけてこの講演を結びたいと思います。
 それで前申した己のためにするとか人のためにするとかいう見地からして職業を観察すると、職業というものは要するに人のためにするものだという事に、どうしても根本義を置かなければなりません。人のためにする結果が己のためになるのだから、元はどうしても他人本位である。すでに他人本位であるからには種類の選択分量の多少すべて他を目安めやすにして働かなければならない。要するに取捨興廃の権威共に自己の手中にはない事になる。したがって自分が最上と思う製作を世間にすすめて世間はいっこうかえりみなかったり自分は心持が好くないので休みたくても世間は平日のごとく要求をほしいままにしたりすべて己を曲げて人に従わなくては商売にはならない。この自己を曲げるという事は成功には大切であるが心理的にははなはだいやなものである。就中なかんずく最も厭なものはどんな好な道でもある程度以上にいられてその性質がしだいに嫌悪けんおに変化する時にある。ところが職業とか専門とかいうものはぜん申す通り自分の需用以上その方面に働いてそうしてその自分に不要な部分をげて他の使用に供するのが目的であるから、自己を本位にして云えば当初から不必要でもあり、厭でもある事をいてやるという意味である。よく人が商売となると何でも厭になるものだと云いますがその厭になる理由は全くこれがためなのです。いやしくも道楽である間は自分に勝手な仕事を自分の適宜な分量でやるのだから面白いに違ないが、その道楽が職業と変化する刹那せつなに今まで自己にあった権威が突然他人の手に移るから快楽がたちまち苦痛になるのはやむをえない。打ち明けた御話が己のためにすればこそ好なので人のためにしなければならない義務をくくりつけられればどうしたって面白くは行かないにきまっています。元来己を捨てるということは、道徳から云えばやむをえず不徳も犯そうし、知識から云えば己の程度を下げて無知な事も云おうし、人情から云えば己の義理を低くして阿漕あこぎな仕打もしようし、趣味から云えば己の芸術眼を下げて下劣な好尚に投じようし、十中八九の場合悪い方に傾きやすいから困るのである。例えば新聞をこしらえてみても、あまり下品な事は書かない方がよいと思いながら、すでに商売であれば販売の形勢から考え営業の成立するくらいには俗衆の御機嫌ごきげんを取らなければ立ち行かない。要するに職業と名のつく以上は趣味でも徳義でも知識でもすべて一般社会が本尊になって自分はこの本尊の鼻息を伺って生活するのが自然の理である。
 ただここにどうしても他人本位では成立たない職業があります。それは科学者哲学者もしくは芸術家のようなもので、これらはまあ特別の一階級とでも見做みなすよりほかに仕方がないのです。哲学者とか科学者というものは直接世間の実生活に関係の遠い方面をのみ研究しているのだから、世の中に気に入ろうとしたって気に入れる訳でもなし、世の中でもこれらの人の態度いかんでその研究を買ったり買わなかったりする事も極めて少ないには違ないけれども、ああいう種類の人が物好きに実験室へ入って朝から晩まで仕事をしたり、または書斎に閉じこもって深い考に沈んだりして万事を等閑に附している有様を見ると、世の中にあれほど己のためにしているものはないだろうと思わずにはいられないくらいです。それから芸術家もそうです。こうもしたらもっと評判が好くなるだろう、ああもしたらまだ活計向くらしむきの助けになるだろうとはたの者から見ればいろいろ忠告のしたいところもあるが、本人はけっしてそんな作略さりゃくはない、ただ自分の好な時に好なものを描いたり作ったりするだけである。もっとも当人がすでに人間であって相応に物質的嗜欲しよくのあるのは無論だから多少世間と折合って歩調を改める事がないでもないが、まあ大体から云うと自我中心で、く卑近の意味の道徳から云えばこれほどわがままのものはない、これほど道楽なものはないくらいです。すでに御話をした通りおよそ職業として成立するためには何か人のためにする、すなわち世の嗜好しこうに投ずると一般の御機嫌ごきげんを取るところがなければならないのだが、本来から云うと道楽本位の科学者とか哲学者とかまた芸術家とかいうものはその立場からしてすでに職業の性質を失っていると云わなければならない。実際今の世で彼らは名前には職業として存在するが実質の上ではほとんど職業として認められないほど割に合わない報酬を受けているのでこの辺の消息はよく分るでしょう。現に科学者哲学者などは直接世間と取引しては食って行けないからたいていは政府の保護の下に大学教授とか何とかいう役になってやっと露命をつないでいる。芸術家でも時にれられず世からかえりみられないで自然本位を押し通す人はずいぶん惨澹さんたんたる境遇に沈淪ちんりんしているものが多いのです。御承知の大雅堂たいがどうでも今でこそ大した画工であるがその当時ごうも世間向の画をかかなかったために生涯しょうがい真葛まくずはら陋居ろうきょひそんでまるで乞食と同じ一生を送りました。仏蘭西フランスのミレーも生きている間は常に物質的の窮乏に苦しめられていました。またこれは個人の例ではないが日本の昔に盛んであった禅僧の修行などと云うものも極端な自然本位の道楽生活であります。彼らは見性けんしょうのため究真のためすべてをなげうって坐禅の工夫くふうをします。黙然と坐している事が何で人のためになりましょう。善い意味にも悪い意味にも世間とは没交渉である点から見て彼ら禅僧は立派な道楽ものであります。したがって彼らはその苦行難行に対して世間から何らの物質的報酬を得ていません。麻の法衣を着て麦の飯を食ってあくまで道を求めていました。要するに原理は簡単で、物質的に人のためにする分量が多ければ多いほど物質的に己のためになり、精神的に己のためにすればするほど物質的には己の不為になるのであります
 以上申し上げた科学者哲学者もしくは芸術家のたぐいが職業としてゆうに存在し得るかは疑問として、これは自己本位でなければとうてい成功しないことだけは明かなようであります。なぜなればこれらが人のためにすると己というものは無くなってしまうからであります。ことに芸術家で己の無い芸術家はせみ脱殻ぬけがら同然で、ほとんど役に立たない。自分に気の乗った作ができなくてただ人に迎えられたい一心でやる仕事には自己という精神がこもるはずがない。すべてが借り物になって魂の宿る余地がなくなるばかりです。私は芸術家というほどのものでもないが、まあ文学上の述作をやっているから、やはりこの種類に属する人間と云って差支さしつかえないでしょう。しかも何か書いて生活費を取って食っているのです。手短かに云えば文学を職業としているのです。けれども私が文学を職業とするのは、人のためにするすなわち己を捨てて世間の御機嫌ごきげんを取り得た結果として職業としていると見るよりは、己のためにする結果すなわち自然なる芸術的心術の発現の結果が偶然人のためになって、人の気に入っただけの報酬が物質的に自分に反響して来たのだと見るのが本当だろうと思います。もしこれがてんから人のためばかりの職業であって、根本的に己をげて始て存在し得る場合には、私は断然文学を止めなければならないかも知れぬ。幸いにして私自身を本位にした趣味なり批判なりが、偶然にも諸君の気に合って、その気に合った人だけに読まれ、気に合った人だけから少なくとも物質的の報酬、(あるいは感謝でも宜しい)を得つつ今日まで押して来たのである。いくら考えても偶然の結果である。この偶然が壊れた日にはどっち本位にするかというと、私は私を本位にしなければ作物が自分から見て物にならない。私ばかりじゃない誰しも芸術家である以上はそう考えるでしょう。したがってこういう場合には、世間が芸術家を自分に引付けるよりも自分が芸術家に食付いて行くよりほかに仕様がないのであります。食付いて行かなければそれまでという話である。芸術家とか学者とかいうものは、この点においてわがままのものであるが、そのわがままなために彼らの道において成功する。他の言葉で云うと、彼らにとっては道楽すなわち本職なのである。彼らは自分の好きな時、自分の好きなものでなければ、書きもしなければこしらえもしない。至って横着おうちゃくな道楽者であるがすでに性質上道楽本位の職業をしているのだからやむをえないのです。そういう人をして己を捨てなければ立ち行かぬようにいたりまたは否応いやおうなしに天然をげさせたりするのは、まずその人を殺すと同じ結果におちいるのです。私は新聞に関係がありますが、さいわいにして社主からしてモッと売れ口のよいような小説を書けとか、あるいはモッとたくさん書かなくちゃいかんとか、そういう外圧的の注意を受けたことは今日までとんとありませぬ。社の方では私に私本位の下に述作する事を大体の上で許してくれつつある。その代り月給もげてくれないが、いくら月給を昇げてくれてもこういう取扱を変じて万事営業本位だけで作物の性質や分量を指定されてはそれこそ大いに困るのであります。私ばかりではないすべての芸術家科学者哲学者はみなそうだろうと思う。彼らは一も二もなく道楽本位に生活する人間だからである。大変わがままのようであるけれども、事実そうなのである。したがって恒産こうさんのない以上科学者でも哲学者でも政府の保護か個人の保護がなければまあ昔の禅僧ぐらいの生活を標準として暮さなければならないはずである。直接世間を相手にする芸術家に至ってはもしその述作なり製作がどこか社会の一部に反響を起して、その反響が物質的報酬となって現われて来ない以上は餓死がしするよりほかに仕方がない。己を枉げるという事と彼らの仕事とは全然妥協を許さない性質のものだからである。
 私は職業の性質やら特色についてはじめに一言を費やし、開化の趨勢上すうせいじょうその社会に及ぼす影響を述べ、最後に職業と道楽の関係を説き、その末段に道楽的職業というような一種の変体のある事を御吹聴ごふいちょうに及んで私などの職業がどの点まで職業でどの点までが道楽であるかを諸君に大体理会りかいせしめたつもりであります。これでこの講演を終ります

自営業者の体調管理

kaze

<風邪が流行っている>
最近周りで風邪をひいてゴホゴホされている方が多いです。
今日セミナーに参加しましたが、何人か風邪をひかれていました。
幸いここ2年ほど、自分は風邪をひいていませんが、他人事ではないです。

<風邪をひいたら一発アウト>
サラリーマン時代だと、(ブラック的な会社でなければ)風邪で休むことも可能かと思います。 まあ、責任感が強くてなかなか休めないという方も多いですけどね。
でも、自営業者で1人や数人だけで回していると、大ピンチです!
年次有給休暇も傷病手当金も無いので、即収入に響いてきます。

<やっぱり健康はすごーく大事>
健康のうちは、なかなかありがたみを忘れがちです。でも、ほんと健康は大事!
私は「睡眠」と「できるだけ野菜を取る」ことだけ気を付けてます。
今日周りで風邪をひいている方をみて、改めて健康に気を付けようと思いました。
現在、風邪をひかれている方、おだいじに。。。

週刊社労士!(2014/1/11号)

srnews
<年金の減額0.6~0.7%の検討>
政府は27日、公的年金の支給額を来年4月分から0.6~0.7%減額する検討に入った。1%減額する計画だったが、物価が上昇しているのを勘案して、減額幅を縮める。全ての公的年金を受給している人が対象だ。国民年金を満額受給している人(現在、月6万4875円)の場合、月400円ほど減るが、1%減額に比べれば月で200円ほど多くなる。※2013/12/28日経新聞

 

<雇用保険制度見直しの方向性>
厚生労働省の労働政策審議会職業安定分科会雇用保険部会(部会長 岩村 正彦 東京大学大学院教授)は、本日、雇用保険制度の見直しの方向性について、労働政策審議会職業安定分科会(分科会長 阿部 正浩 中央大学教授)に報告し、了承を得ましたので、公表します。これは、平成25年5月23日から議論を重ね「労働政策審議会職業安定分科会雇用保険部会報告書」としてとりまとめたものです。
 なお、報告書の概要は以下のとおりです。
 厚生労働省としては、この報告書の内容を踏まえ、平成26年通常国会への法案提出に向け、法案要綱を作成し、労働政策審議会に諮問する予定です。

※下図をクリックすると拡大して見れます。
2014.1.11

 

トライアル雇用奨励金 育児離職ママにも対象拡大
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