現在は、社会保険労務士として、「労働」「社会保険」「年金」の相談手続業務を行っている私。
今でこそ、事務仕事をしておりますが、若いころは、肉体労働ばかりしておりました。
そういえば事務仕事に転向したときは、よく怒られてましたね、全然PCが使えなくて・・・。
高校を卒業し、最初に始めた肉体労働・・・それが「新聞配達」でした。
今回は、昔のことを想い出しながら、新聞配達をしながら勉強をした日々について、語っていきたいと思います。
もし、これから新聞配達をしながら、勉強しようかと考えている方にも、参考になれば幸いです。
奨学金なら聞いたことがあるが、奨学生ってなんだ?という方もおられるかと思います。
簡単に言えば、「住み込みで新聞配達をして、学費や生活費の補助を受けながら、学校に行っている人たち」のことを言います。
大学や専門学校、あるいは浪人して勉強を続けていくにあたって、先立つものはお金ですよね。
部屋を借りるにも、敷金礼金が必要ですし、もちろん学費も必要です。
そんな先だつ不安を解消してくれるのが、「新聞奨学生」という制度なのです。
自分の場合は、「勉強がしたかったから」です。
ほんとですよ。(※あと、家からとにかく出たかった)。
自分の家庭は、大学どころか、「中学卒業したら働け」ぐらいの勢いでした。
世間では、「勉強しなさい」とか「塾へ行きなさい」といわれ、しぶしぶ勉強している学生も多いかと思います。私からしたら贅沢な悩みです。
自分は小さいころから、本屋で長時間立ち読みしたり、図鑑を読んだり、とにかく勉強が好きで、学校が好きで、どうしても大学に行きたかった。
家では、「勉強は道楽だ」という方針でしたので、なんとしても勉強が続けたかったのです。
じゃあ、家で居させてもらって、勉強続ければ?という声も聞こえてきそうですが・・・
まあ・・その・・殴る、蹴る、9時就寝、他いろいろ。。。
なので、必死になって何かいい方法は無いかと調べました。
今でこそ、インターネットで、色々な情報を得ることができますが、当時はネットなどあるわけでは無いので、18歳の頭で必死に考えました。
さらに色々調べ、どうやら日本経済新聞がいいらしい、ということまでたどり着き、親に内緒で、申し込みました。
当時、深津絵里さんが宣伝していたことをよく覚えています。
少々の荷物は段ボールで専売所(=新聞配達で住み込みする場所)へ送る予定でしたので、バック片手に僅かな書類等を持参して、東京へ行きました。
最初、説明会を受けるんですが、自分のあまりの荷物の少なさに、周りの方は驚いていました。
それだけ、家を出て、東京で勉強したかった、という覚悟をもっていました。
ちなみに、その後東京で約8年程住むことになるわけですが、1秒も「ホームシック」にはなりませんでした。
さて、説明会にて話された内容(=初めての仕事で初めて言われたこと)で、印象的だった言葉が、現在の私の「座右の銘」となっています。
それが・・・
「とにかく早く寝ろ」「寝れば何とかなる」
でした。
新聞配達にとって、早起きは重要ですから、睡眠時間の大切さを伝えたかったのでしょうが、私は、新聞配達から離れた現在でも、この教えを守っています。
だから私は、時に忙しいときでも、夜中まで仕事をすることはごくまれです。
睡眠時間を差し引いて、仕事するよう心がけています。
私の配属先は、日経新聞の中野区で、ほのぼのとした商店街があるところでした。
たまたま配属された場所によって、人生は色々変化していきますが、私の場合は、そんなほのぼのとした場所で過ごすことになりました。
日経新聞にしたのは、当時、自分が調べた中では、一番安心できる感じがしたからです(※あくまでカタログ上)。
このブログを書くにあたり、久しぶりに労働条件を見てみると、当時の労働条件とは、だいぶ変化していることが分かりました。
①女子学生は在籍していない
今は若者が少なく人手不足で、女子も雇い入れないと、新聞配達は回らないでしょうが、当時は、男ばかりでした。
おしゃれな専売所なんて、当時は無かったでしょうね。
②部屋にはエアコン、クーラー無し
部屋は、6畳をさらに半分にしたような感じでした。エアコンは無いので、夏は団扇か扇風機です。
北海道の旭川から来た同期は、夏の暑さでバテていましたね。
今と違って、とても勉強できる環境ではないかもしれませんが、それでも、個室で、自由を感じて、夏の暑さ以外不満はなかったです。
③集金業務もあり
毎月、集金業務がありました。私は結構、テキパキ集金していましたが、それでもなかなか会えない方もあり、水道メーターを見ては集金していましたね。
集金業務も、リーフ撒き(チラシ配り)もあったけど、他の新聞社と違って拡張(=営業)が無かったので、「ラッキー」と思っていました。
④卒業後のバックアップ無し
そんなのは、自分で考えて進学なり、仕事なり、見つけないといけません。でも、当時それが当たり前でした。私は、結局2浪することになりましたが、今度落ちたら、パチプロでもなろうかとも考えました。
今よりも労働条件は良くなかったけど、当時は労働基準法なんて知らないし、調べることなんて無かったし、ただただ「こんなもの」という感じで、目の前の環境を受け入れて、日々楽しく過ごしていました。
私は浪人生でしたので、原則、予備校通いと新聞配達が、日々の生活となります。
朝、4:00までには起きてきて、冒頭のきゃりーぱみゅぱみゅ の写真のように、せっせと折り込みチラシを入れて、配達にでかけます。
私は自転車で新聞配達をする地区で、前かごを筍(たけのこ)のように上手に折って積み配達します。
先輩(音楽やってる長髪の優しい方でした)に教えてもらい、その後デビューしました。
デビュー当日は、風の強い日で、自転車を倒し、新聞が吹き飛び、泣きそうになりながら配達したのを覚えています。
配達を覚えるまでは、「順路帳」なる虎の巻を持って配達します。
そして自分がお休みの日は、「代配(だいはい)」と呼ばれる代わりに配る方と引き継ぎをし、その順路帳を見ながら、配達してもらうことになります。
当時その専売所は、9区ほど区域がありましたが、私が担当していた地区は、結構大変なところでした。
部数も結構ある上、たった1部を5階まで上がっていくところなど、時間がかかる場所だったんです。
新聞配達中は、無我夢中で配っておりましたが、私の担当のところは、高層階で富士山が見えるところがありました。
冬晴れで富士山が良く見えるときは、ちょっとだけ立ち止まって、眺めていましたね。
あと1度夏の暑い日に、新聞配達中に脳の血管が詰まったのでしょうか、左腕が全く上がらなく麻痺したことがあったのを覚えています。
麻痺する直前に飲んだコカコーラが良かったのか、1時間ほどして麻痺が収まり助かりました。
新聞配達というと、冬の寒いときが嫌、というイメージがありますが、少なくとも東京で新聞配達しているときはそうではなかったです。
一番大変だったときは・・・
①夏の夕刊(すぐ体がヒートアップ。上記のように死の危険も。就寝中もクーラー無しだった)
②11月下旬の雨(東京は冬は雨がなく晴れ。冷たい雨はドンドン手の感覚を失う)
でした。
私はその専売所では、結局2年することになりました。
早稲田大学と明治大学に落ちたからです。
2浪目はランクを落とし、なんとか東洋大学法学部に合格したときは、本当にうれしかったですし、今でも「助かった」と思っています。
2年目は、予備校にも通わず独学で過ごしていたのでお金がたまっており、専売所を離れるときには、大学入学に必要な入学金やらアパートをそれで工面しました。
人生には、大事な転機を迎えるときがありますが、私にとっては、この大学合格が大きな転機となりました。
さて、専売所での新聞配達は終わり、次へ向かって進むかと思いきや、まだ続きがあります。
【①大学入学後、途中でお金が無くなり、半年間だけ、読売新聞で働く】
特段、親から仕送りがあるわけでもないため、バイトしながら大学に行くことになるのですが、どうにもお金が底をつき、一時、読売新聞で働くことになります。
2浪のときは、「代配」をしていたため、新聞配達のプロ?として認められて採用されました。
生活が苦しいときに、昔取った杵柄で、仕事にすぐありつけ、本当に助かったことを覚えています。
【②時折寝坊した夢を、その後10年以上見続ける】
もう、新聞配達をすることは無いのに、その後10年以上も、「寝坊した!」とハッと目を覚ますことが続きました。
そんなバカな・・・と思われるでしょうが、本当です!
ちなみにあの「ウォルト・ディズニー」も晩年まで夢を見ることになったそうです。
体にインプットされてしまうんでしょうね。
【③ジョプリンの「エンターテイナー」でまた思い出す】
専売所の部屋は、壁が薄い個室でしたので、隣の物音がよく聞こえました。
そして、隣の人の目覚まし時計の音楽が、ジョプリンの「エンターテイナー」だったこともあり、その曲を聴くと、そわそわし、忘れていた「新聞配達」や「配達忘れ」を想い出させます。
パブロフの犬 状態です。
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